私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して27年目になりました。
この病気は、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に生きています。
なぜ私が……と思う気持ちと向き合ってきながら、
前向きになったり、感謝したり、自棄になったり、泣いたり、笑ったり。
これまでの経験を書きたいと思います。
こんな人生もあるんだなと、気軽に読んでいただけると嬉しいです。
Contents
青春真っ盛り19歳!突然の体の異変
1992年、ゆず39(私)は短大二年生になったばかりの19歳でした。
青春を満喫し穏やかな暮らしがずっと続くと疑ってなかったあの頃が懐かしくもあり、他人事のようであり。
それまで病気とは無縁だった人生が、病気と縁が切れない人生になりました。
改めて、良く無事にここまでこられたな。と感謝せずにはいられません。
無我夢中で歩いてきた経緯を振り返ってみようと思います。
まず最初の異変は、1992年5月のゴールデンウィークに熱海へ旅行中に起きました。
夜中に突然耳の奥が痛くなり、一晩中耳を押さえながら眠れずにうずくまっていました。
次の日の朝には少しは痛みが和らいでいましたが、旅行を楽しむ余裕などなくなっていました。
旅行から帰って急いで耳鼻科に行くと、
「中耳炎です。当分通うように」
とのこと。
しかし、痛みがなくなるとそのまま病院には通わなくなってしまいました。
その半月後、今度はお腹の痛みがちょくちょく起こるように。
学校も休みがちになっていました。
でも、痛みが軽くなるとバイトや遊びに飛び回っていたゆず39を母が心配して、病院へ行くことに。
この時はお腹の痛みは我慢できる程度で、生理不順だったこともあり、産婦人科へ行きました。
そこでは、「子宮内膜症」と診断され次回の予約をして帰宅をしたその夜に、突然息が出来なくなる発作に見舞われたのです。
至急、救急車で救急外来のある婦人科へ運ばれました。
医師から「点滴をしながら詳しい検査をしましょう。」と説明されている間に、お腹の痛みが激痛に変わり、嘔吐し始めた。
そして徐々に意識もぼんやりしていくゆず39を見て医師が、
「これは、婦人科ではない」
と救急車で外科の病院に移るよう大至急手配してくれました。
ここからはあっという間の出来事でした。
外科の救急外来に着くなり緊急手術。
何のことか、どうなっているのかさっぱり分からない。
母が「ゆず39ちゃん、先生が助けてくれるから。手術頑張るのよ。しっかりしするのよ。」
と叫ぶ中、
お母さん!手術なんて怖いよ!死にたくないよ!また会えるの?
と心で思いながら、
既にしゃべる事も、手を動かす力もなく息絶え絶えで、手術してこの痛みがなくなるなら。とすがる思いでした。
後の話では、
腸が捻じれて(腸ねん転)、便やガスの通り道がなくなりお腹にたまって腸が破裂したのだそうです。
そして、腹膜炎を起こしており、嘔吐したものは腸から逆流を起こして出てきた汚物だったとのこと。
確かにあの時うっすらとした意識の中、吐いたものが茶色くドロっとしていたような記憶があります。
父と母は、先生から「非常に危険です」と言われ、
とにかく何枚かの書類に急いでサインしたそうです。
手術の間、父と母は用意された病室で待つように言われ、
”部屋が用意されてるから、ここに戻ってくるよね。”
と不安をぬぐい取っていたとのことでした。
この日を境に、病との長い付き合いが始まったのです。
緊急手術
血圧が低下しすぎたのと、ショック症状を起こしていたせいなのか、
手術中に麻酔が覚めて、内臓をえぐり取られる恐怖の痛みに耐えなければなりませんでした。
まるで包丁でお腹の中をグリグリ、ズンズンとかき回されているよう。
口には呼吸器、手には点滴、血圧計、足には輸血、おしっこの管や鼻にも管、そして心電図etc.
意思を伝えることなど出来ず、意識が飛んでは目が覚める。地獄のような時間でした。
そして目が覚めると手術が終わっており、
母が
「ゆず39ちゃん!ゆず39ちゃん!分かる?お母さんよ!」
と言っているのが聞こえ、
”また会えたんだ・・・・!””良かった・・・”
と思いながら、
ガタガタ震えるような寒さと、燃え上がるような痛みと、息をするのもやっと。といった状況にひたすら耐えていました。
この時はまだ意思表示ができなかったのですが、
看護師さんがすぐに、小さな湯たんぽを足の付け根と足先、わきの下、脇腹あたりに入れ、毛布を掛けてくれたので心から感謝しました。
次に目が覚めると、今度は体中が燃えてるかと思うくらい熱い。息苦しい。
と思った瞬間、
今度は氷枕や保冷剤で体を冷やしてくれ、助かった。と思いました。
そんな状態で数日が過ぎ、やっと少ししゃべれるようになりはじめました。
先生から
「大変だったね。よく頑張ったね。
お腹の外に一時的に腸を出したままにしているので、落ち着いたら戻す手術をしましょう。」
と言われたのだけ覚えていますが、
”ん? 外に腸を出している? お腹はあいたまま???”
”もう手術なんて二度と嫌よ”
と強く思いながら、質問をぶつける気力もなく、
バイト休んだままだな。また旅行にも行けるかな、
とぼんやり考えていました。
今思うことは、あの頃の私は自分の体に無関心すぎた。
便がどのくらい出ていないか。いつ何を食べたか。
痛みや体の不調からも目をそらし、
あまりにも無関心で、無知でした。
中耳炎になった時、体はひそかにサインを出していたのでは?
それに、ご飯を食べるとお腹の痛みが出ていたので、あまり食べていなかったような。
お医者さんから、
便は毎日出てる?何日おき?
痛みの頻度は?強さは?
の質問にきちんと答えられていなかった。
正直、覚えてなくて適当だったと思います。
患者が発する情報は、治療の取り掛かりの目安になります。
検査すれば分かるだろう。は間違い。
先生方も、たくさんある病気の中から手探りで病気を見つけて、治そうとしてくれているから、症状を伝えることはとても大切なことだったんだと痛感しています。
もし、たら、れば、、、、
を言い出したらキリがないけど、あの時もっと早く自分の体に目を向けてたら。
と思ったこともしばしば。
ただ、後になって分かることですが、
そんな話だけではなく、私には生まれ持った病があり、それが牙をむき始めていたのです。
続く・・・
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