38歳~もう一度~(十)

私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して28年目を迎えました。

この病気は遺伝子の異常により、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、 
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に過ごしています。

生きていくのが怖い。でも、死ぬのはもっと怖い。
身動きが取れなく、くじけそうになり、時に自棄になりながらも周りの人たちに助けられ何とか過ごせています。

こんな人生もあるんだな。と気軽に呼んでもらえると嬉しいです。

東京オリンピック開催国決定の時…

東京オリンピック

令和2年、いよいよ東京オリンピックが開催される。(はずでしたが、コロナで延期になりました)

オリンピックの開催国が東京に決まった7年前。
その時、ゆず39は入院中で病に苦しんでいる真っ只中でした。

連日のようにテレビでは、オリンピックが東京で開催される!
とお祭り騒ぎの中、それを横目に「7年後‥…生きてるだろうか。無理…」
と息絶え絶えに思っていた。

この時、頭の血管の手術を終えたばかりで、
とにかく頭が火事で焼けているかのように熱く、顔には麻痺が残りビリビリと痛く、呼吸をするたびに痛みが響き渡り、ただひたすら時間が経つのを待つばかりという状態。

泣く力もなく、何も考えられなかった時、初めて”痛い”、”熱い”以外の事を考えたのが、
「7年後のオリンピックに生きているだろうか」ということでした。

手術は出来る範囲で無事に済んだけど、最初に先生からの説明があったように血流があまり良くなく、神経も傷ついていたため目に後遺症は残るとのこと。

色彩はハッキリせず、全体がぼやけて青みがかって見え、眼球はわずかにしか動かず。。。

どのくらい回復するか、祈る思いでした。

それから二ヶ月後の夏、無事に退院しましたが頭痛・顔の痛み・吐き気・倦怠感で一日一日生きているだけで精一杯。
目は左目は閉じたまま。右目は半分開く程度しか回復していませんでした。

外出する時は、左目に眼帯をしてサングラスと帽子を被り容姿を隠すように。

目の動きも悪く、日常生活に不安だらけで、外出するのも怖く家に閉じこもってばかりで、気が狂いそうな毎日でした。

その秋ごろ、知り合いから水栽培用の水仙の球根を頂き、春に花が咲くの見られるのか。それどころか、明日を無事に迎えられるか。
という思いが込み上げ、身辺整理が出来るようにならなくては。と焦り始めた。

身辺整理なんて後ろ向きな感じがしますが、毎日生きているのが精一杯。というところから一歩抜け出せた瞬間だったと今は思います。

少しずつ心に変化

少し前を見る

退院して一年が過ぎた頃、見え方が少しは良くなっていると感じるようになりました。

左目は半分開くようになり、右目は8割開くまで回復。

この頃は、新聞はルーペ(拡大鏡)を使えば何とか読める日もありましたが、物が二重に見えていたので、外を歩くのがとても怖かった。

人や物との距離感がうまくつかめず、まっすぐに歩けているのか分からず、急に立ち止まることもありました。

頭痛や顔の麻痺は少しはマシになったけど、痛み止めが手放せず、飲んでもスッキリ痛みが引かなかったので心が晴れなかった。

しゃべると頭に響いたので、声は力なくか細くなり、誰とも会いたくなくて家で天井を見つめながら寝ている時間が長い。

けれど、少し調子の良い日は家の片づけをしたり、家族あてに手紙を書き残したりもしていました。

この頃住んでいたマンションが子育て世代の家族が多く、前の駐車場に毎日20人くらいの大人や子供が集まって遊び場になっており、一階に住んでいたゆず39は悩まされました。

管理人さんに、駐車場で遊ばないように張り紙などしてもらいましたが効果はなく、
「引越したい!とにかく元気にならなくては!」
と強く思った。

そんなことを原動力にしながら、少しずつ出来ることを増やしていきました。

まだやれる!!!

虹に願いを

二年が過ぎ、調子が良いと新聞も読めるようになってきました。

物が二重に見えていたのも、少しは焦点が定まるように。
これは脳外科の先生がおっしゃるには、斜視のひどい左目でなく、右目でほとんどを見るように脳が処理しているのでは。という事でした。

人間の体は不思議なもので、補う力があるのだそうです。


お陰様で近場に遊びに行ったり、友達と会ったりもするように。

友達は変わり果てたゆず39の顔を見て驚いており、何と言葉をかけてよいか分からないようでした。

でも、一人で出歩けられるようになったことや、日常生活を不自由なく過ごせるほど回復したことがとても嬉しく、見た目の変化には目を背けるようにしていました。

Sくん(旦那)が、変わりなく一生懸命に支えてくれていたので乗り越えられたのだと思います。

それでも、痛みは完全には消えず明るく前向きに。とばかりも行かなかった。

毎日毎日、ウジウジ晴れない自分にも嫌気がさしてきたころ、前にお世話になっていた派遣会社の方から連絡がありました。

頭の手術をしてその後も大変だったことは伝えていたので、今どんな状況かを確認したいとのこと。

電話で話をした後、会社に来てもらってもう一度伺いたいです。と言われ、出向いていくことにしました。

パソコンがどの程度使えるのか確認し、話し合いました。そして、何と仕事の依頼をして頂くことになったのです。

飛び上がるほど嬉しい反面、尻込みしました。
こんな私で本当に勤められるのか?迷惑をかけたら…

派遣会社の人と話し合い、派遣先に面接して決めて頂こう。と言うことになりました。

結果、了承して頂けたので、もう一度勤められることに。

もう一度働ける!!!
嬉しくて、嬉しくて、無我夢中で頑張りました。

週に2~3日で4時間程度の仕事でしたので、働きやすくもありました。

すると、顔に表情がよみがえり、目の見え方も更に良くなってきたのです。

派遣先の方も、ゆず39の事を大変気に入ってくださり、3年後には派遣ではなく直接雇用にしてくれました。

定年まで勤めたい!
未来が開けてきたように思え、とにかく健康でいたい!
まだやれる!そう強く願いました。

続く

もう一度 私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。病気が発覚し...

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