私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して27年目になりました。
この病気は、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に生きています。
病気が分かってからの人生は今までと全く違うものとなり、新たな道を進みます。
今回は、病気を抱えながらの仕事・遊び・恋愛など体験談を書きます。
こんな人生もあるんだなと、気軽に読んでいただけると嬉しいです。
Contents
旅行も楽しめるようになる
最初は働くことで精一杯だったけど、少しは体力も戻り色んな事に興味が湧いてくるようになり、スキーやキャンプにも行きました。
全力でみんなと同じように遊ぶと体力が持たなかったので、半分楽しめればいい。くらいのつもりでスキーは休み休み滑る、キャンプは一人早めに寝るなど対策し、それでも楽しかった。
友達や両親と国内・海外旅行にも行くことが出来るようになりました。
ただ、海やプール、温泉には行けなかった。
主治医の先生は、何をしたらダメ。とか言わずに、いつも
「無理せずゆっくりね。」
とだけ言ってくれたので(それしか言いようがなかったのかも)、
自分で体調を見ながら入念に計画を組み、必ず予定を詰めすぎないように注意を払いました。
そうしなければ、すぐに体調を崩し入院となった。
海外旅行はもしもの場合に備えて、先生に病名や注意事項を書いてもらった書類を持って行きました。
中でも、フランスのルルドとアメリカ・オーランドのディズニーランドは、心に深く刻まれています。
アメリカのディズニーランドに友達4人で行ったときは、
ストーマの事を隠したまま(病気のことはある程度伝えていました)の旅行だったので、随分と気を使いましたが本当に夢のようでした。
ディズニーランドの花火やショーは空全体を包み込むようなダイナミック&ゴージャスで、歓声と涙が止まらず、息をするのを忘れそうなくらい感激しました。
その他、ヨーロッパ・アメリカ・東南アジアなど色々な所に行き、今までの辛かったことを忘れるくらい幸せでした。
しかし、夢の国ディージニーランドに行ったあと、また恐怖の体験が待ち構えていたのです。
恋をする
ゆず39は27歳になっていました。
ストーマの生活にも大分慣れ、病気についてもあまり深く考えないようにしていました。
入院する回数も、年に1、2回くらいに減っており、なぜかゴールデンウィークやお正月休みに入院することが多く、仕事もあまり休まなくなっていました。
普通に働けることが嬉しかった。
そしてゆず39は恋をした。
恋愛なんてしてはいけないと恐れて避けていたのに、、、
相手は、同じ会社の三歳年下のS君。
気取らず話せて柔らかい雰囲気があり面白く、とても気が合いメール交換もしていました。
ある土曜の夜、突然S君から
「会えない日は寂しいです。好きです。」
といったような内容のメールが来た。
とても驚いたけど嬉しかった。
そして受け入れたらダメだという気持ちと、断りたくない。という思いが葛藤した。
悩んだ末 、時間をかけて言葉を選びながら
「ありがとうございます。
色々と説明しなければいけないことがあります。」
と送った。
次の日の日曜日、S君から電話がかかってきたので、
ストーマの事を言わないといけない。と思ったがどうしても言えず、
体が弱く何度も手術して普通の体ではない。とだけ説明した。
他にも何か言いたそうで言えない様子を察して、S君は
「色々と大変だったんだね。ゆっくり話してくれたらいいよ。力になれたらと思うから。これからお互いの事もっと知っていこう」
と言ってくれ、とりあえず早速デートすることになりました。
ストーマの事をどう話そうか。どんな反応をされるのか。と悩んだまま見切り発進したけど、どうしてもこのまま引き下がれないでいた。
病気の本当の怖さを知る
初デートは、最高に楽しかった。
何を食べても美味しく(いや、もう味なんて分からない)、ただ一緒に歩いているだけでもスキップしてしまう程嬉しく、何がおかしいのか二人でずっと笑って。
浮かれるとはこういうことなんだ。と思った。
人生の絶好調だった。
夢のような時間を過ごした。
家に帰るとちょうど母がお風呂から上がってきたので、
S君と付き合うことにした。とだけ伝えると、
母は複雑そうに、「でも、うン、、、」と心配そうな顔をしました。
そんな母に、「大丈夫よ」と自分にも言い聞かせるように言いました。
なぜ、まだどうなるか分からないのに、この時点で母に伝えたのか。やっぱり浮かれていたんだと思います。
そして翌朝、
体に異変が起き、幸せな時は引きずりおろされていったのです。
朝、仕事に行く前にシャワーを浴びていた時、突然腰の奥あたりに熱いものが流れたと思い手を添えた瞬間、今まで味わったことのない激痛と息苦しさに襲われました。
お風呂場から出て、母に助けを求めないといけないと思うが動けない。
這うようにしてうずくまりながら、このまま倒れたら死ぬかも。と頭をよぎり、力を振り絞ってうなるように声を出した。
奇跡的に母が異変に気が付いてくれました。
母は服を着て病院へ。というが、激痛で全く動けない。
そんな様子を見て母もただ事ではないと、すぐに救急車を呼んでくれた。
裸のままだったのが気になったけど、それどころではなかった。
救急隊員が毛布を上からかけて運んでくれました。
主治医のいる病院に着くと、一瞬安心したが
主治医は怖い表情のまま、急いで大学病院へ行く手配をし、母に大変なことになった。と言いました。
大学病院に向かう救急車の中で、ますます息が苦しくなり左足から腰にかけての激痛に脂汗をかき、目をむいていました。
”何?この痛みは尋常ではない・・・”
大学病院に着くと、お医者さんや看護師さんが救命装置を持ち待っていた。
そのまま先生が声をかけてくれながら慌ただしそうに処置する準備をしている中、
お茶を飲んでおきたくて、やっとの思いで
「お茶を・・・」
と言ったが、即却下された。
そして、МRIの検査を受けている途中で息が全く出来なくなりパニックに。
傍にいた先生がすぐに異変に気付き、あっという間に挿管された。
あまりの恐怖に最後の抵抗をしたが、
すごい勢いで押さえつけられ、 管を喉の奥まで力づくで押し込まれた。
出刃包丁で喉をえぐられ目が飛び出たんじゃないかと思った。
でも次の瞬間、空気が入ってくるようになり一安心したのも束の間、全く体が動かせない。
手も足も少しも動かない。
しゃべれない、動かせない、左足と腰の激痛。発狂したいが意思表示できない。もう完全にパニック!
看護師さんが一生懸命に話しかけてくれているのが耳に入ってきた。
「頑張るのよ。今は手も足も動かないと思うけど、それは今だけだからね。大丈夫だからね!」
と意識があるのかどうかも傍目には分からないゆず39に、叫んでくれていたのです。
それを聞いて安堵し、気絶した。
この言葉にどれだけ救われたか。
顔も名前も分からないままだったけど、
今でもこの時の看護師さんには心から感謝しています。
あの言葉が聞けていなければ、衝撃が強過ぎて生きる気力を失くしてたと思います。
今までの体験から、意思表示が出来ない状態でも耳だけは聞こえていることが結構あると思いました。
続く・・・
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