28歳〜山あり谷あり這い上がれ〜生きる怖さと死の恐怖(八)〜

私”ゆず39”(ゆずさく)の病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して27年目になりました。

この病気は遺伝子の異常により、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、 
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に過ごしています。

病気の怖さと戦いながらの、結婚生活や仕事、気持ちの変化ついて書いていきたいと思います。

こんな人生もあるんだな。と気軽に呼んでもらえると嬉しいです。

結婚

結婚

左足の動脈解離から無事退院して一ヶ月が経ち、仕事にも復帰しました。

主治医の先生からは、「とにかく無理しないようにね。」と念を押され、仕事に復帰するのは渋まれたけど、
家で何もせずにいるよりも仕事に行く方が落ち込まず、心も元気になれる気がしました。

左足の動脈は手術により閉鎖しており、細い血管だけが頼りで、足がとても重く痛かったけど、それ以上に仕事が出来ることが嬉しくて充実した気持ちになれました。

それに、ある程度動いたことで新しい血管が作られてきたようで、次第に痛みや重さは軽くなっていきました。

主治医の先生も、「よく頑張ったね。」と喜んでくれました。

S君とも順調に交際を続け、
普通のカップルと同じように喧嘩もしたけど、毎日が幸せでした。

付き合うと決めた時から、”結婚を前提に、お金を貯めよう”。と言っていたS君。
けど二年たったある日、ボーナス全部つぎ込んでゴルフクラブを買った。と言われ、やはり結婚することに対して尻込み始めたんだな。と感じました。

子供を産むことはできない。いつ倒れて死ぬかもしれない。そんな人と一緒に生活することを冷静に考えたら無理と思うのも当然。

このままずるずる付き合っていてもお互いの為にならないし、今ならまだ一人でもやり直せる。
でもあと2、3年このまま一緒にいたら、一人で生きていけなくなりそうで怖かった。

ゆず39のような病気を抱えていては、同情とか好きなんだけど。。。くらいの気持ちでは一緒に乗り越えていけないと思っていたから、S君にそう伝えると、

S君は、はっきりと結婚したい。
と言い、話がトントン拍子に進んでいきました。
今、この時の決意が欲しかったから、それで良かった。
先のことは分からない。

もし一緒になって心変わりがあったら、その時は今度は私が受け入れるしかない。とゆず39も決意した。

二人の中ではこれで済んだけど、今度はS君のご家族の反応が怖かった。

お付き合いを始めた時から、病気の事など話はしてくれていたようで、ゆず39も電話では話をしたこともあったけど、
結婚となると”喜んで”と言うわけにはいかないのが普通の反応だと思う。

それでも覚悟して会いに行くと、想像以上に笑顔で歓迎してくれて胸が熱くなりました。

一泊二日でご挨拶の予定が5日も泊まることになり、
S君の家族に出来るだけ”ゆず39がお嫁に来てくれて良かった”と思ってもらえるようになろう。
と心から思いました。

新婚生活

気力は十分

新婚生活は楽しかったけど、 料理や掃除、洗濯、生活のやりくり。慣れないことばかりで、 一気に生活スタイルが変化したので体が付いていけずよく入院しました。

先が思いやられるな。と不安ながらも、気力だけは十分あった。

そして慣れてくると、パートで少しだけ働くこともできるようになりました。


仕事内容は、耳鼻咽喉科で検査助手と医療事務。
時給は安かったけど資格がなくても雇ってくれ、
従業員の人たちに仕事以外にも料理や、やりくりの仕方などアドバイスをもらい、とても助かりました。

医療費もかかるし、働けるときはなるべく働いておきたかった。それに働けるのは嬉しかった。

主治医に結婚の報告をした時、「子供はどう考えている?」と聞かれ、「二人ともあきらめています」と答えると、「それならいいね。」と安心されました。

でも、ゆず39の中ではあきらめきれない思いがあり、一年間元気でいられたら、一度S君と先生に相談してみよう!とひそかに考えていました。

その為にも、できるだけ食べ物に気を付けて、健康的に過ごすようとても努力した。

ゆず39より後に結婚した人たちが、どんどん子供が出来るのに素直に喜べず、誰にも言えないまま7年苦しみました。

好きな人と結婚できただけでも幸せ。と言い聞かせる反面、
S君に申し訳ない気持ちが思っていた以上に自分の中で割り切れず、
頭から離れることはありませんでした。

でも、子供は産んでおしまいではない。育てないといけない。

それにゆず39の病気は、出産で命を落とす確率が非常に高い。でも、どうしてもあきらめきれなかった。

転勤

新しい土地で

S君は転勤族で、結婚三年目にとうとう異動が決まりました。
新しい土地で夫婦2人だけで生活していくのは不安があったけど、それも覚悟の上のこと。

引越しの日、駅まで送ってくれた父が
「まー、元気で頑張れ」とサッとお金を渡してくれました。
ここで泣いたらまた心配させると思い 涙をこらえ気丈に振る舞うのに必死でした。

父も母も、とても心配だったと思うのですが、
いつもゆず39の決めた道を頑張れ。困ったときはいつでも力になる。と応援してくれたので、とても心強い気持ちになれました。

そして入院した時は、ゆず39の母が応援に来てくれ大変助かりました。

お陰様で元気になれて、今度は会計事務所で働けるようになりました。

この職場は体が弱いことも考量してくれ、働きやすく、先生が仕事中でも暇なときは勉強させてくれたので、すぐに簿記三級の資格を取得できました。

そして次は簿記二級を取ろうと意欲的になっていきました。

経理の仕事は今まで自分には合わないと思い込んでいたけど、意外にどんどんハマり、答えがハッキリ出せるところや計画立てて取り組めるところなども気に入りました。

やりがいも感じ、長い間さがしていた一生できる仕事が見つかった!と思いました。

こうして仕事も見つかり、新しい土地に少しずつ馴染んでいくことが出来ました。

それにお互いの家族を招いて、一緒に遊びにも行けたことは本当によかった。

でも、S君はゆず39を抱えての新しい仕事の環境に、いつの間にか心労がたまりうつ病になってしまいました。

朝、どうしても玄関から出られず会社に行けない。毎日会社に行く支度をしても、玄関で右往左往しているS君。

病院に行くと会社を休むのが一番の薬と言われ、S君の上司とも相談をし、しばらく仕事をお休みさせてもらうことにしました。

こんなに追い詰められていたんだと知り、もっとゆず39がしっかりしなければ。と感じました。

結婚六年が過ぎたこの頃、S君はゆず39と結婚したことをどう思っているんだろう。と気になり始めましたが、
聞いても自分の慰めにしかならない気がして聞けませんでした。

嬉しいこと

姪っ子誕生!

そんな中、兄夫婦に待望の第一子が誕生しました。これは飛び上がるほど嬉しかった!!!
その後、S君の兄弟も結婚し子供が生まれた時は、心から安堵し有難く思いました。

赤ちゃんを見て本当に可愛いと思うと同時に、小さな命への責任と育てる大変さがはっきり分かりました。

この頃からゆず39の中で、子供に対する執着心は消えていったように思います。

S君の家族や親せきからは一度も、子供がいないことで嫌味を言われたり、それらしいことさえ言われたことはありません。

これは、本当に有難かったし、感謝してもしきれません。
でも、自分の中で勝手にいつもどうしようもない気持ちが重くのしかかる。

S君には、おじいさんとおばあさんもいらしたので、ひ孫の顔が見せてあげたいな。
S君を父親にしてあげたいな。。。

今更ですが、病気を抱えたゆず39が結婚するということの重みと責任を感じていました。

その後、二人で話し合って地元に帰れるように会社に申請を出し、上司の取り計らいにより帰れることになりました。

やはり体調を崩したとき、すぐに頼れる実家が近く、ずっと診てもらっていた病院があると思うだけで違います。

これで、S君もゆず39も精神的負担は少しは減るのかな。と思い、これからは出来るだけS君を支えていこうと思いました。

お世話になった会計事務所の方たちにお別れ会をしてもらい、改めて良い出会いがあったことに感謝し、
地元に帰っても簿記の勉強を続け、このまま経理の道へ進もうと決意しました。

頭の手術

温かい手

そして何とか地元で新たな経理職のパート先も決まり、意気揚々と張り切っていたけど、
一年も経たないうちに今度は頭の血管が切れて、命がけの大手術をすることに。

血管が切れる痛みと言うのは、言葉では言い表せないくらいの激痛と恐怖で、悪寒と燃えるような熱さや痛み倦怠感が一度に襲ってきて、息をするのさえままならなく、一思いに殺してくれと思う程。

頭の激痛を感じた時点で、すでに目が開きにくく圧迫されたように重く、物が二重に見えていました。

病院に運ばれ検査をし治療方針が決められたけど、怖いことをたくさん言われました。

12時間近くに及ぶ手術を終え、頭が燃えるように痛く、息絶え絶え。

早く寝てしまいたかったけど、辛すぎて眠れない。
寝たと思ったら、火の中に飛び込んでもがく夢ばかり見る。

燃えているように熱く痛いあたま。
頭も顔も腫れてビリビリ、ガンガン、ジンジンする。

ナースボタンだけは離さないようにしっかり24時間握りしめて、動けない恐怖と痛みに耐えるしかありませんでした。

手術は出来る範囲で無事に済んだとのことで、あとは経過観察。
どこまで回復するか、祈るしかなかった。

頭の手術はお腹の時とは違い、食事は割と早くから食べられるようになります。
始めは気持ちが悪くて喉を通らなかったけど、痛みがある中でもがむしゃらに食べるように。

この大学病院は食事がメニューも豊富でとても美味しいんです。それはかなり有難いことでした。

手術して最初にシャワーを浴びられるようになった時、看護師さんが付き添ってくれました。

まだ自分では足元もおぼつかず、服を脱いだり体を洗ったりとても親切に介助してくださり、その手の優しさに涙がボロボロ。

集中治療室いた2週間、この看護師さんには細かい気配りをして頂き、本当にお世話になり支えてもらいました。

きちんとお礼を言えないまま一般病棟に移ったのが心残りでしたが、8年近く経った今でも思い出します。

一般病棟に移ったころから、一人で何とかシャワーも浴びられるようになりました。

そして 頭痛が常にあったので吐くことも多かった けど、
食欲がすごくて三食以外にもパンやおにぎりやチョコレートなど食べて周囲を驚かせていました。

薬の副作用もあったようですが、普段小食なゆず39が食べられたのは力になったと思います。

手術から三週間が経ったある朝、”今日は少しだけ頭が軽い”と感じました。
”目も今までより開くようになった気がする”。

そしてCT検査の結果、一週間前より血流が良くなっているとのこと。
先生もこの変化に驚き、
「一山超えたね!」
と言われ、久しぶりに笑顔がでました。

退院する頃には思っていた以上に血流も良くなりましたが、

手術前にすでに目の神経が傷ついていたので少し後遺症も残り、
片目は半分も開かず、両目とも眼球の動きが悪くなりました。

そして頭痛や顔の神経痛に悩まされ続けることになります。


見た目も変わり、どんどん壊れていく自分の体。

忘れられない痛みと恐怖との闘い。
逃げたくて、全部放り出してしまいたい日々との闘い。

S君を支えるどころではない。もう自分のことで一杯一杯で、
人を思いやる余裕もなく、自分がS君の負担になっていることが何よりも辛く、卑屈になっていった。

やっと見つけた仕事も続けられなくなり、辞めたのがとても悔しかった。

そんな時、叔母が心配して会いに来てくれ、思いっきり泣けたので少しすっきりしました。

いつもそばにいる人の前ではこれ以上弱音を吐いたり泣けないのかもしれません。
周りもみんな一杯一杯なのだから。

続く・・・



28歳〜山あり谷あり這い上がれ〜生きる怖さと死の恐怖(二)〜
https://yuzu39.com/byoureki9/



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