青春真っ盛り19歳!突然の体の異変~病名が分かるまで~(四)

私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して27年目になりました。

この病気は、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に生きています。

なぜ私が……と思う気持ちと向き合ってきながら、
前向きになったり、感謝したり、自棄になったり、泣いたり、笑ったり。

これまでの経験を書きたいと思います。

こんな人生もあるんだなと、気軽に読んでいただけると嬉しいです。

検査入院

病名は何?

大学病院に検査入院する日にちがとうとう決まりました。

手術して治るのか、笑って出られるのか。と
まるで監獄に入れられるような気持ち。

大学病院でも個室に入りたくて知り合いや先生に頼んでみたけど、個室の数が少なく無理だったので不安が余計に募りました。

大部屋で診察の時、みんなの前でお腹とか見せるのかな?
着替えとかはどこでしたらいいんだろう?お風呂は?

ストーマのこともあるし、 他の患者さんに知られるのが嫌だったから 色々心配でした。

入院する日母と病院に行き、手続きを済ませ看護師さんから説明を受けると、
前の病院とあまりにも違いすぎて戸惑った。

面会時間もきっちり決められており、
母が帰った後、一人トイレで一時間近くボロボロ泣き疲れ、六人部屋の真ん中のベッドに戻り

”これからどんな検査をして、どんなことを言われるのか。”
”これで私の一生が決まる。”

そんなことを考えながら、いつの間にか眠っていました。

翌朝早く看護師さんが来て、
「昨日は早く寝れたみたいね。心配してたけど、大丈夫そうかな?
また、何かあれば言ってね」

と言ってくれて、少し緊張がほぐれました。

カーテンを開けるとすぐに同室の人たちが話しかけてきたのには
びっくりしたけど、気さくでみんな良い人たちだったので良かった。
(多分、暇を持て余してたんだろうけど)

この当時(1990年代)の大学病院は、患者のプライバシーなどは後回し。

とにかく効率よく医療従事者がやりやすいようにすることが先決で、
カーテンは夜寝る時以外はきっちり全開にしておかなければなりませんでした。

教授の回診のときは、
患者はベッドで行儀よくずっと待ち続けなければならず、
ゾロゾロと物々しく回って来て、患者はみんな有難がっていました。
まさに「白い巨塔」。
ベッドの上で正座して待っている人も珍しくありませんでした。


でも、そんな大学病院にも段々慣れてきました。
なぜなら、看護師さんも先生方も本当に優しかったから。

それにいくら大学病院でもお腹を見せる時や着替えの時は、カーテンを閉めてくれました。


看護師さんが、
「何か不安なことや困ったことがあれば言ってね。」
と気遣かってくれたのがとても嬉しくて心強かったです。

大学病院は若い研修中の先生も多く、入れ代わり立ち代わり声をかけてくれ、
好きな歌手の話や話題になっていたサッカーの事など気軽に話せて気が紛れました。

当時”B’z”のファンだというと、カセット(懐かしい)に新しく出たB’zのアルバムを録音してくれ嬉しかったのを覚えています。

検査のない日は元気だったので夜中にお腹がすき、地下の自動販売機の焼きおにぎりやホットドックをよく買いに行った。

看護師さんの巡回時間は大体把握していたので、その合間にベッドから抜け出して非常灯しかない地下を歩いていると、
ときどき扉から先生や看護師さんが出てきたりして驚いた(向こうもかなり驚いていた)。

地下は薄暗かったし冷暗所もあったので、夜は不気味な雰囲気がありドキドキしながらも食べる焼きおにぎりは最高に美味しかった!

でも、検査はきつかった。

胃カメラ、大腸カメラ、皮膚組織検査、エコー、眼科、耳鼻科、小児科、内科、消化器科・・・

色んな科で、いくつもの検査を行いました。

恐れていた結果・・・

たくさんの涙・・・

検査は毎日はできないので、入院していたのは一ヶ月半くらいだったでしょうか。

そして、ついに結果が出た。

父と母と三人で説明を聞きに部屋に呼ばれて行くと、
3、4人の先生たちが、固まった表情で待っておられました。

悪い予感しかしなかった。
もう部屋に入った瞬間、頭がクラクラしてほとんど正気でいられなかった。

説明の内容はよく覚えてないけど、こんな感じの内容。

・” Ehlers–Danlos syndromes  血管型”という病気だということ、
・ストーマを閉じる手術をすることは危険すぎてできない。
・日常生活には十分注意を払わなければいけない

そして、医学は日進月歩で発達しているから、希望を捨てずに。。。

というようなことだった。

その時は病名は良くわからなかったし、その時はどうでもよかった。

ただ、聞きたかったのはストーマを閉じる手術のこと。
ずっとこの一年間ストーマを無事に閉じることだけを願っていて、出来ると信じていた。

このまま生きていくつもりは全くなかった。

先生は、ゆっくり柔らかくショックを受けないように説明しようとしてくれていたけど、
途中で泣き崩れ、過呼吸になり目の前が真っ暗になった。

ただ、6年後にこの病気の怖さを思い知ることになります。

先生が固い表情をしていたのは、ストーマが閉じれないことよりも、
むしろこの病気が分かったからだったのです。

新しい道

命の重み

もう、病院にいる必要はありませんでした。

お世話になった看護師さんや先生たちに、感謝の気持ちを伝えたかったけど、ちゃんと言えそうになかったので手紙を書きました。

書きながら少し気持ちを整理した。

看護師さんから詩集を集めた本を頂き手を握りながら「頑張るのよ」と言われ、また泣きました。
今でもこの本は大切に持っています。

これから、どう生きていけばよいのか・・・
1994年、21歳のゆず39には未知の世界でした。

退院して家に帰ると、また絶望感に襲われ、どうしようもなく落ち込みました。

数週間落ち込んでほとんど誰ともしゃべらず部屋に引きこもっていました。

そしてこのままではいけない!
「そうだ!猫が飼いたい!」と思った。

子供の頃”トムとジェリー”を見てから、ずっとグレーの猫を飼いたいと願っていたけど、父が家の中で動物を飼うのを嫌って実現してなかったのを思い出して。

早速、電話帳でペットショップを探し、グレーの猫がいないか電話しまくり、ようやく見つけました。

母に言って、すぐに二人で店にかけつけ、そのまま連れて帰ることに。

父が仕事から帰ってくると、文句を言いながらも笑ってくれ、ようやく久しぶりに三人に笑顔がこぼれた。

ちなみに、
ゆず39には兄がいるけど、県外に出ていた為、病院の人たちによく一人っ子と間違えられていました。

グレーの猫は女の子で、
「ミーシャ」と名付け、我が家のアイドルとなり、笑顔をたくさんくれました。

そのうちに何となく、
”これからのことは出来ることから始めよう!”

そう思い始めてきました。

青春真っ盛り19歳!突然の体の異変~病名が分かるまで~(完)

この続きは
21歳~27歳!新たな道を~病気の本当の怖さを知るまで~(一)
https://yuzu39.com/byoureki5/


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