私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して27年目になりました。
この病気は、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に生きています。
病気が分かってからの人生は今までと全く違うものとなり、新たな道を進みます。
今回は、病気を抱えながらの仕事・遊び・恋愛など体験談を書きます。
こんな人生もあるんだなと、気軽に読んでいただけると嬉しいです。
生きる
左足の激痛に目を覚ました。
治療をしている途中らしい。先生たちの会話が聞こえる。
「くそッ。いやいける」
「おー!やっぱり俺天才かも。」
ここだけ聞こえ、
上手くいってるのかな。助かるかも。と思った。
でも、激痛に耐えられない。足が燃やされているんじゃないかと思うほど。もういいから終わりにして。もう無理。
そう思いながら、
このまま死んでしまったら、S君はどう思うんだろう。
昨日、初デートをしたばかりなのに、次の日突然死ぬなんて後味が悪すぎるだろうな。
怖いだろうな。自分のせいとか思ったら悪いな。
と思いがよぎり、
どうしても、ここで死ぬわけにはいかない。
と強く思いながら、また気を失っていた。
左足がとても重く、痛くて目が覚めた。辺りは静かで、心電図などの機械音だけがピコピコ聞こえていた。
すると母が
「ゆず39ちゃん。目が覚めた?先生、先生目が覚めたようです!」
と言うと、先生はすぐ来てくれた。
ここは集中治療室で、先生や看護師さんが常に見える所にいたようです。
「おー。気が付いたかね?大変だったねー。いやー麻酔なしでよく頑張ったよ。あの状態で麻酔なんて出来なかったからね。脚切る寸前だったよ」
と言われた。
”何で?何でそうなるの?”聞きたいことが山ほどあったけど、人工呼吸器が装着されたままでしゃべれない。
先生が筆談するよう紙とペンを持ってきてくれた。
「足はちゃんとある?歩けるようになる?」と書くと、
先生は
「足はちゃんとあるよ。大丈夫。歩けるようにもなるはず。あとはリハビリして頑張ろうね」
と言った。
そして、なぜこんなことになったのかを説明してくれました。
左足の動脈が解離して、カテーテル手術で治療したこと。大変危険な状態だったこと。
動脈解離を起こすと、助からない人も多くいること。
そして、ゆず39の病気はこの動脈解離を起こしやすいということ。
そうだったんだ。そんなに大変な病気だったんだ。
と、ボーっと思った。
お見舞い
先生はまず、人工呼吸器を外せるようにならないとね。と言った。
様子を見ながら、酸素を入れる量を減らしていったが、すぐに機械が”ピーッ、ピーッ”とけたたましく鳴り響く。
どうやら、自発呼吸が浅く酸素が足りてないという警告音らしい。
そのたびに、先生に「ゆず39さーん。しっかり息をして。浅くなってるよー」
と言われ、慌てて一生懸命に呼吸をした。
息をするだけなのに、こんなに意識して頑張っていないと出来ないなんて、、、
人工呼吸器が取れるようになる日は来るの?
と焦った。
そんなある日、S君がやって来た。
随分と心配していたようで、何とか母と連絡を取りどうしてもお見舞いに来たいと。
迷ったけど、こうなったらありのままを見てもらい、あきらめるしかなかった。今日、明日が分からないような病気を抱えて付き合うなんて無理だと思ったから。
S君は
「心配したよ」と言葉を詰まらせながら言った。
ゆず39は筆談で、「ごめんね。もういいよ」
とだけ書きました。
するとS君が「もういいよなんて言わないで。お願いだからそんなこと言わないで。ずっと待ってるから。待ってるから」
というのを聞いて、
ゆず39は声が出せない状態のまま泣き、人工呼吸器の機械がピーッ!ピーッ!と響き渡り、驚かせた。
それを見ていた先生が、
「大丈夫!いいねー!肺が鍛えられてるよ」
と言ってくれたので、母もS君もみんな安心しました。
手紙
人工呼吸器が何とか外せるまで回復した。
外すとき、想像以上に奥の方から管がズルズルと出てきたので、喉も一緒に取れたのではないかと思った。
喉に傷がついているからいきなりたくさんしゃべらないように言われました。
確かに、数日は喉が痛くてしゃがれた声が少ししか出なかった。でも、体から少しずつ管が減っていき、一般病棟に移れることに。
左足はまだとても痛くて、自分では動かせない。
そして、40℃前後の熱も続いていましたが、日に日に体を起こせるようになり、ベットに座れるようにもなりました。
左足が常にジクジク燃えるような痛みのせいか、火事の夢をよく見ていました。足が燃えていると焦って目が覚める。
そんな日々でした。
教授回診の時、若い先生たちにも良く診ておくように。と病気の事や手術の事を説明され、色々な先生が診に来ました。
そんなある日、母から手紙を預かっている。と差し出されました。S君からでした。
もう少し回復したら、きちんと説明をして断らないと。と思っていましたが、
いざとなると手紙を読むのが怖くなった。
もしS君からの手紙の内容が、
悲観的な内容なら、分かってはいるけど落ち込むし、
温かい内容なら、また心が揺らいでしまいそうでした。
結果、励ましと、これから力になっていきたい。一緒に頑張りたい。という内容で、S君が携帯に付けていたストラップも同封されていました。
読み終わった後、体の内側から熱いものがこみ上げた。
今回の入院でゆず39自身もこの病気の恐ろしさにおののいたのに、それを一緒に背負わすなんてそんなの残酷すぎる。とも思った。
でも、この手紙が励みなったのは言うまでもありません。
リハビリが始まり、足を動かす度に襲う激痛と熱に嫌気がさすこともありましたが、まずは歩けるようにならないと!と無我夢中に頑張れました。
転院
一ヶ月が経ち、
熱も38℃を超えることはなくなりました。
痛みはまだあるけど、大分歩けるようにもなり、大学病院から主治医のいる病院へ移ることになりました。
ここからは、回復していくのも早かったように思います。
S君も、会社帰りにお見舞いに来てくれました。
もう先延ばしにしてはいけないと思い、病気の経緯を全て詳しく話すことに決めました。
ストーマの事、大きな病を背負っていかなければならず巻き添えにする訳にはいかないこと、今まで黙ってて悪かったこと。
上手く伝えれそうになかったので、手紙を書きました。
S君と病院の談話室で消灯の時間までおしゃべりした。
そして帰ってから読んでね。と手紙を渡しました。
これで終わった。仕方がないんだ。
そう自分に言い聞かせ、病院のベッドで布団をかぶって泣いた。
これから・・・
しばらくして携帯が鳴った。
S君からだった。出るのが怖くて手が震えた。
「いま車で病院の前まで来てるんだけど、少しだけでも出てこれない?」と言う。
消灯を過ぎていたので、看護師さんに心配かけないように、少しだけ人に会ってくる。と伝えて会いに行った。
そして二人でとことん話し合った。
全部伝えたはずなのに、S君は全くひるまない。
そして一歩も引かず、離れる理由にはならない。二人で頑張ろう。と言う。
こんなことあるんだ。本当にいいのかな。と思いながら、
今まで辛かったこと痛かったこと怖かったこと全部いっぺんに吹っ飛んだ。
このときS君に聞いた話ですが、
ゆず39の母にどうしても集中治療室にお見舞いに行きたい。とお願いした時、
母から大体のことは聞いて知っていたそうです。
そして母は、
S君にそう言ってもらえるのは有難いし、お見舞いにも来てください。でも、お付き合いすることは、S君のご家族のことも思うと考えた方が。
と言ったとのこと。
これからどうなっていくか分からない。けど、今この気持ちを大切に育んでいこう。そう思いました。
そして、ここまで来ることが出来たことに心から感謝しました。
「21歳~27歳!新たな道を~病気の本当の怖さを知るまで~」(完)
読んで下さりありがとうございます。
「28歳~!山あり谷あり這いあがれ~病の恐怖との闘い~(一)」に続きます。