私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して27年目になりました。
この病気は、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に生きています。
なぜ私が……と思う気持ちと向き合ってきながら、
前向きになったり、感謝したり、自棄になったり、泣いたり、笑ったり。
これまでの経験を書きたいと思います。
こんな人生もあるんだなと、気軽に読んでいただけると嬉しいです。
ひと時の安らぎと希望
緊急手術から一ヶ月以上が経ち、少しずつ回復してくると気分も落ち着いてきました。
友達もたくさんお見舞いに来てくれて、大きなぬいぐるみや、花束、本などを頂き、励ましの言葉や手紙に感極まって泣いて笑って。
という穏やかな日々が戻ってきました。
”お腹の中が落ち着くまで、腸を出している”
という意味も、起き上がれるようになったころ分かりました。
一時的に人工肛門(ストーマ)を造っていたのです。
その時びっくりはしたけど、すぐに閉じれると聞いたので、あまり気に留めなてなかったように思います。
母は、
「今度の手術が終わったら、やわらかいトイレットペーパー買ってきてあげるからね。病院のは硬くてヒリヒリするのよ」
そこで私が、
「それは助かるわ。私のお尻は柔らかくてデリケートなんだから」
と言い笑いあっていたくらい。
そして二か月くらいして、ようやく人工肛門を閉じる手術が決まりました。
いざ決まると、怖くて泣くゆず39に看護師さんが
「今度はバッチリ準備して、体調を整えての手術だから大丈夫!早く終わらせて元気になろうね」
と励ましてくれ、気持ちが少し楽になったのを覚えています。
手術の前の晩に、麻酔科の先生が説明に来られたので、途中で目が覚めないようにしっかりと頼んでおきました。
その夜、病室のベランダに出て夜風に当たりながら、希望を胸に膨らませて星を見上げていました。
”きっと大丈夫!これが終われば、また元の生活に戻れる!”
元気になる為の手術
「手術を始めるね」という先生の言葉と同時に
全身麻酔のマスクで 口と鼻を覆われると、前回の手術の恐怖が一気によみがえり、「待って!!!」と叫んでいました。
でも、もう覚悟を決めるしかありません。
怖い!と思いながら目をつむり、
目が覚めると、母と友達が話しかけてくれていました。
でも、とても返事なんかできないくらい、
やっぱりしんどい。痛い。つらい。力が入らなくて目もしっかり開けられない。
この間と違うのは、凍えるような寒さはなく、
最初から全身が熱かったこと。
手術前の説明では、2〜3日したら大分楽になるって言われたよな。
そう思いながら耐えるしかなかった。
でも、三日目、
少しは話せるようになったけど、まだ意識がもうろうとしている。
相変わらずの高熱と痛み。全身のだるさ。
一日何回も行われるガーゼ交換。
朝に先生がガーゼ交換をし、次は看護師さんが来てお腹のガーゼを取った瞬間、
「ハッ!」と言ったと思ったら、ナースコールを押し、
「先生にすぐに来てもらって!」
と、あっという間に緊迫した空気に。
どうしたんだろう?やっぱり何かおかしい。
だって、全然ラクになるどころか、意識が遠のいていく。
周りが慌ただしくなり、
「腸がまた破れたから、もう一度手術するからね。頑張るのよ!しっかりね!」
と看護師さん。
「い や だ・・・」
やっと口に出せた言葉もむなしくかき消され、あっという間にストレッチャーで手術室に運ばれました。
生き残るための手術
2度目の緊急手術が終わった。
もう一度、腸を出してストーマが作られました。
もうとにかくしんどくて、この頃は日付も時間の感覚もなく過ごしました。
どのくらいで言葉を発せられるようになったのかも覚えていません。
ここから、一ヶ月以上絶飲絶食のはじまり。
高熱が続くから、のどが渇いて仕方がなく、砂漠にいる夢ばかり見る。
27年経ってもいまだに、水分が常に手元にないと不安になります。
一ヶ月以上してやっと、コップに小さな氷をいれてもらい「少しづつね」
と渡された時は、
鬼の形相でむしゃぶるように一気に舐め、すぐに吐き出させられました。
そして徐々に決められた少量の水から飲めるようになりました。
やっと生きた心地がして水の有難さを痛感しました。
お腹は全然すかなかった。
それどころか食べたくなかった。
食べ物を見るのも臭いをかぐのも嫌で、コマーシャルで食べ物を見るだけで嘔吐。
吐くものなんてもう随分前からないのに。
そして、縫合不全(縫い合わせたところが 解離してしまう )も起こし、
起き上がれず安静にし、 感染症や合併症を起こさないように気を付けながら 傷口が自然に塞いでくるのを待つしかない。
こんな状態が4~5か月くらい続きました。
ただれた皮膚やむき出しになった肉の臭いが病室に常に漂い悩まされました。
自分から獣の臭いがするのが辛かった。
先生からの説明では、
「皮膚も粘膜ももろく、縫ってもはがれてしまい、80歳の人の腸より老化が激しい」
ということでした。
汚い腸液などを外に出さなければならず、 ずっと鼻からお腹の中までチューブを通したままで、 これがとにかく一番辛かった。
あまりに苦しくて、寝ている間に無意識に自分で引き抜こうとしたことも何度もあり、ずっと付き添ってくれていた母が見張っていてくてました。
精神的にも病み、
天井の模様が虫がたくさん動いているように見えるなど”せん妄症状”も出て、心も体もボロボロでした。
心の拠り所
痛くて、つらい入院生活が続いていましたが、
周りの人たちにとても助けられました。
個室だったこともあり、母はほとんど毎日泊りがけで看病してくれました。
父も仕事終わりに毎日来て腰を揉んでくれ、あまり動けなかった私には有難かった。
そして、ここの看護師さんたちが、ものすごく親切で親身にしてくれたのは救いでした。
暇を見つけては、お風呂に入れない私に、足湯をしながらマッサージをしてくれたり、足の指の間まで時間をかけて丁寧に洗ってくれました。
そして一緒に涙を流しながら、話をとことん聞いてもらいました。
クリスマスには少しでも気分が味わえるよう、ささやかながらもお祝いをしてくれました。
そして、先生にも本当に良くして頂きました。
無口な先生でしたが誠実で、ほとんど毎日1~2回様子を見に来てくれ、治療法を考え、親身になってくれました。
信頼おける先生や看護師さんが居てくれたことは救いでした。
そして、友達・・・
こちらは有難かったり、悲しく悔しい思いも随分味わいました。
入院が長引いてくると、お見舞い客もグッと減ってきます。
いま考えると、それは仕方がないことだと思えるのですが、当時は忘れられていく自分が情けなくて寂しかった。
入院するまで青春を謳歌していたゆず39は、当時は交友関係が割と広かった。
学校の友達、バイト先、前のバイト先、サークル、コンパで知り合った人達、、、
若かったから、みんな遊ぶのに忙しかった。
楽しいことに夢中だった。ゆず39も今まではそうだったから。
あんなに一緒に遊んでいた人たちの中で、10ヶ月後の退院まで気にかけてくれていたのは、たった2人でした。
一人ポツンッと取り残されて、悲観的にもなりましたが、
私がそれだけの付き合い方しか出来ていなかったんだ。
と、悟りました。
この頃から、物の見方や考え方が少しずつ変化していきました。
今のゆず39からすれば、病気する前のゆず39はあまり好きなタイプでなく、話は合わないだとろうな。
と思います。
ちなみに、
入院する前に紆余曲折を経てやっとお付き合いをしていた人がいたのですが、
入院と同時に全くどうでもよくなったのは、良かったと思います。
最初は粘ってくれていた彼も、半年後には新しい彼女が出来たようです。
そんなこんなで、
人の優しさが心に染み、人があっさり離れていく悲しみ、
孤独、不安、親の深い愛情、etc.
色々な複雑な思いを一気に凝縮して味わされた入院生活でした。
続く・・・
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