私”ゆず39”(ゆずさく)の 病名は、 ”Ehlers–Danlos syndromes ”の「血管型」です。
病気が発覚して27年目になりました。
この病気は遺伝子の異常により、血管や皮膚・粘膜などの組織が弱く、”突然死”という心配が尽きない病で、
心の内側にずっと不安を抱えながらも、無事に過ごしています。
病気の怖さと戦いながらの、結婚生活や仕事、気持ちの変化について書いていきたいと思います。
こんな人生もあるんだな。と気軽に呼んでもらえると嬉しいです。
もう一度
頭の手術から二年が経ち、頭痛と神経痛に悩まされながらも日常生活は普通に何とか送れるようになると、
もう一度働きに出たいと思うようになりました。
家にいてグチグチと晴れない顔をしている自分にも嫌気がさしていた。
でも物が二重に見えて視力も低下したので、細かい数字を正確に扱う経理の仕事はもう無理でした。
それが悔しくてたまらなかった。
そんな時、以前働いていた派遣会社から仕事の依頼がありました。
週に2~3日で1日4時間程度の簡単な図書管理と事務の仕事。
これなら何とか出来るかも。と思い切って面接に行くと、あっさり受け入れてもらえとても嬉しくなりました。
パソコンを使うのは心配でしたが、ルーペを持参して周りに迷惑をかけないよう必死で努力した。
最初はとても大変だったけど少しずつ要領もつかめ、とても生き生きとしてくるのを実感しました。
目の後遺症により見た目が変わったので、人前に出るのがとても嫌だったけど、職場の人は案外あまり気にしてないように思えました。(以前のゆず39を知らないから当然かな)
あまりクヨクヨしなくなり、とにかく休んで迷惑かけないように体調管理には随分と気を付けた。
派遣先の会社もとてもゆず39の事を気に入ってくれ、派遣ではなくこのままずっと働いてほしいと頼まれ、
まだ出来る!このままゆっくり自分なりに頑張っていこう。
と前向きになり、S君とも笑い合うこが増えました。
どんな時でも、諦めず支えてくれるS君と一日でも長く笑顔で一緒にいたい。と思い始めた頃また突き落とされます。
もう頑張れないかも
次の連休に旅行に行く予定で楽しみにしていた矢先、仕事中にまた体に異変が起こりました。
今度はお腹の激痛。また尋常でない痛み。生汗が出て言葉さえ発せられず息絶え絶えの状態で大学病院へ運ばれました。
お腹の動脈解離。
主治医の先生に
「何時何分何秒に痛みが出た?」
と聞かれ、笑わせて和ませようとしているのかと勘違いしました。
が、
動脈解離を経験した人は、激痛が起きた瞬間の時間をはっきり覚えている人が多いということを後で知りました。
確かに、時間は何秒まで覚えてなかったけど、時間や感覚やその時のことは今でもハッキリ覚えています。
手術はせずに、ひたすら安静にして様子を見ることになりました。
集中治療室のベットで安静にしたまま三週間。
ただベッドで寝ているだけ。絶飲絶食で閉ざされた毎日。とても長く感じ、気が狂いそうでした。
そんな中、S君は面会が可能な朝晩一時間、必ず顔を見に来て出来る限りの事をしてくれました。
それなのに、笑顔一つ見せれないゆず39。
どんなにS君は大変だっただろうと思います。
お陰様でやっと一般病棟に移れ、少し体を動かすリハビリを行うことになり、藁をもつかむような気持でした。
動けることの嬉しさ。そして少しづつ食べられるものが増えていく嬉しさ。
それと同時に襲ってくる恐怖。
そして一ヶ月以上が経ち、とりあえず少し血流が戻ったのでそのまま退院することになりましたが、治ったわけではなく細い糸でようやくつながっている状態。
でも、手術は危険すぎるからこのままで様子を見ましょう。
ということでした。
腸への血流がわずかなまま、またいつ解離を起こすかもわからない状態での退院。
退院は嬉しいはずなのに、精神的にどんどん追い詰められていった。
もう頑張れないよ。何でこんな痛くて怖い思いばかりしなきゃいけないの?
「死ぬのは怖い。けど生きているのはもっと怖い」「今日は生きていられる?また痛みがいつ来る?」
そう思うようになりました。
何をしていても、いつ痛みがくるのか不安で仕方がない。あんなに好きだった旅行も行きたくない。何もしたくない。誰とも会いたくない。
そして、S君に頼ってばかりで一人では何もできないこともたまらなく怖くて仕方がなかった。
せっかく周りの人たちに支えられてここまできたのに、前向きに・・・と思いながら、
情けない思い。
S君の優しさも負担に感じるようになり、もう素直に受け入れることさえ出来なくなってしまいました。
答えが見えないまま
自分の事ばかりになりましたが、S君も仕事がとても大変でした。
本当は転勤族なのに、会社に無理を言って転勤なしで勤務させてもらっていたので、周りの人たちと協調していくのが難しく、仕事も単調になりがちだけど、量だけはどんどん増えていくようでした。
それでも会社から帰って、笑顔で迎えて愚痴をゆっくり聞いてくれる家族がいれば頑張れるのでしょうが、ゆず39は自分のことで精一杯な毎日。
何とかしなければ。と思うけど、そう思うことがもう負担に思う自分の非情さ。
そんな状況なので、S君も追い詰められて飲んで悪酔いして帰ることも増えました。
仕事から疲れて帰るとゆず39はいつも辛そうな顔をしている。何をして欲しいのか、どうしたら良いかも言わない。
そして夜中にとうとう
「どうしたらいい?俺だってもう限界だよ!!!」
と、いつも温和なS君がドンッと壁に穴をあけうずくまりました。
そんなS君にごめんね、と声を掛けることもできず、
「そりゃそうだわ。私ももう無理だから、もういいよ」と
出ていくゆず39をS君は引き止め
二人で泣いたこともありました。
そんな日々の中、ある夜寝る前にS君が、
「来年、勤続20年で会社から少しお祝い出るんだ。どこか行きたいところとか、やりたいことはない?」
と聞いてきました。
でもゆず39は、
”来年なんて迎えられる?未来が見えない。計画なんて立てられない。毎日生きているだけで精一杯”
と思い、何も答えられず声を殺して泣くだけでした。
どこにも行きたくなかったし、いつでもすぐに病院に駆け込めるよう家から出たくなかった。
台風や雪が降ると、救急車が来れないのではないかと不安で一杯になった。
常に緊急連絡用のボタンを家の中でも持って、今か。来るかも。と痛みの恐怖に怯えて過ごすだけの日々でした。
一年が無事に過ぎ
S君の実家は他県にあり、泊りがけで帰省しなければいけませんでした。
しかし、どうしても診てもらっている病院から離れるのは怖くて、帰省することが出来ないでいました。
今度は帰れそう?と聞かれるのがプレッシャーになり、申し訳ないという思いと、もうどうでもいい。という気持ちが湧いてきて、また非常な自分に焦りました。
S君の家族はみんな優しくて、帰省しても嫁が忙しい思いをする、というようなことは全くなく、いつものんびりと過ごさせてもらっています。
これも本当に有難いことなのに、それでも帰れない。
とにかく移動するのが辛くて、怖くて、環境の変化に対応できない。
もちろん入院や手術のことは言っているけど、乗り物に長く乗る危険性や、すぐにお腹の調子が悪くなったり、体が辛いことは細かくまで説明できませんし、理解しがたいのではないかと思います。
でも時々しか会わないのに、会った時くらい笑顔で楽しくいたいし、あまり分かってほしい。ばかり押し付けるのはいけない。
どこまでどういう風に説明するかは結構難しいと感じています。
ある程度の感覚のズレは仕方がないのかもしれません。
この頃は、急にパニックになり過呼吸になることも多くなっていたので、ますます人に会うのが嫌になっていました。
過呼吸は未だに忘れた頃に起こることがあるので厄介です。
そして一年が過ぎ、先生にお腹のエコー検査で血流の流れを確認してもらった時、
「血流が半分は戻っているよ」
と画像を見せながら説明してくれました。
主治医の先生もとても喜んでくれ、久しぶりに生きてるんだ!と実感でき、周りの景色が目に入り空がキレイだと感じました。
そして、頑張ってくれている自分の体に感謝せずにはいられず、とても愛おしく感じました。
久しぶりにS君の気持ちにも寄り添う余裕が出て、
「勤続20周年のお祝いなんだけど、S君の家族に来てもらって皆でこの近くの温泉でも泊まるのはどう?」
と提案しました。
ゆず39は温泉は血圧の変動が怖くて入れないけど、そんなことより皆で行きたいという気持ちになれたことが嬉しかった。
もちろん、近くでも旅館に泊まるのは不安が大きかったけど、このまま死ぬのは嫌だな。と思い、少しは恩返しらしきことというか、思い出も作っておきたかった。
S君は甥っ子をとても可愛がっていて、皆で泊まれるのがとても嬉しかったようです。
そして、二年が過ぎようやく何とかS君の実家にも帰省できるようになりました。
でも、今でも自宅から離れるのはかなりのプレッシャーで、帰省する一か月前くらいから心がかなり不安定になります。
三年が無事に過ぎ
三年が経ちました。
病院の指導に基づいて、軽い運動を心がけ食事にも随分と気を遣っています。
血管外科の先生、脳外科の先生、そして20年以上診てもらっている先生に、本当に助けてもらっています。
質問や心配事など日ごろから書き留めておいて、診察日の前に必ず整理しておきます。
大抵は、日にちが経つと聞くほどのことではないことが多いですが、自分の体調を確認する良いきっかけにもなります。
今までも、色々な努力をしてきましたが、これがラストチャンスだと思って、悔いのないように出来るだけのことはしておきたい。
病気の辛さはなってみた人でないと分からないし、それを支える人の気持ちや苦労は支えた人でしか分からない。
周りの同世代の大半が子育てや仕事に没頭している中、私たちの結婚生活はゆず39の病気に振り回されている。
S君はもっと違う幸せな人生があったのに、私と結婚したばかりに 大変なものを背負わせたな。と
甥っ子を愛おしそうに可愛がり、遊びに連れ歩くS君を見て思います。
家族がいることで、助けられる部分はもちろんたくさんあるけど、その分重みや苦悩も増えます。
退院して三年も経ちそれなりに動けるようになったら、周りは普通に生活できると思うのも当然です。
でも、できない。
生活していくというのは
家事、お金、親せき付き合いなどもこなしていかなければならず、 入院していた頃よりハードルはグッと上がります。
調子が悪いことくらい誰でもあるからと思い、明るく頑張ると反動がくる。そして、甘えているんだと思う
健康と、ある程度のお金が人生には必要だ。としみじみ感じていますが、それも考え方次第で変わるものなのかな。
楽しく軽快な会話を出来た日はとても嬉しく、特に身内の人たちと楽しく話せた日は本当に幸せを感じます。
S君の実家に無事に帰れて会えると、やはりすごく嬉しくて”良かった”と思います。
家族や親せき、ずっと診てもらえている病院や先生がいてくれることは、とても心強く支えられています。
何だかんだ言いながらも生き延びている。生かされていることに感謝する気持ちを忘れてはいけない。
私の体は諦めていない。生きようとしている。
あとは努力あるのみ。這い上がれ!
続く
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